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築城 (連載 第1回) 文: 龍門 歩 作者にメールを送ります
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   一
 ようやく白む東方の明かりに、靄の晦瞑は、巨大な城郭で排除された。星々の燦めきが薄らぎはじめたころ、すべてを吸収するような天蓋の空間は、わずかに無窮の彼方に曳航する光を反射し、茫々と広がる海面へ滴らせていた。まだ明けやらぬ加納藩の城下は、すでに秋の虫の音も絶えている。ゆるやかに吹く海風の中にしっとりとまどろむ、黎明を告げる静かなひとときが、戦きつつ破られようとしていた。
 背景と定かに分かたれもせず、折り重なる塀、幾種類もの櫓や城門、本丸御殿などを従えた五層六階の天守が、漆黒の瓦と、曙光を撥ね返す白壁とによって明度の対比をうみだしながら、重厚な石垣の上にひときわ聳え立つ。小高い丘の地形を生かして合理的に縄張りされたそれら建造物は、濠や樹木などと一体になって律動的な諧調を弾じている。
 この、遙かに仰ぐ天守の矢狭間から、燈台の明かりが濃い靄の中に滲んでいた。
「冴乃……」
 幽かな艶をもつ紫紺の透明が卯月吉景の視野に満ちて、氷結したように深まっていた沈黙はぬるんで溶けはじめた。
 永文二年の晩秋である。外気が直接入り込んでくる板敷きの天守は、冬の到来を告げるように冷えきっている。燈台に揺らぐ灯が、太い通し柱と、それを中心に構成された空間の堅固な境界線とを、ぼんやりと照らし出している。吉景のやや後方に立っている冴乃は、無言であった。
「私は幕府の力を恐れるものではない」
 矢狭間の格子の間から遠く海を眺めていた吉景は、重い扉を押し開くようにつぶやいた。冴乃の位置からは、吉景の表情を見ることができない。いつも変わらぬ夫の後ろ姿ではあるが、分厚い床板の冷めたさが足袋を貫くのか、わずかに窺われる夫の横顔の皮膚はいくぶん強張っているようだ。
「冴乃にも幸せな日々はあったろうか」
 去りゆく記憶を追い求めるように、吉景は語りかけた。吉景の口から洩れた白い呼気が、矢狭間から入るゆるやかな風に乗って冴乃を包んで消えた。
「……ええ。今でも幸せですわ」
 応じたものの、吉景の言葉はいかにも唐突だった。吉景はこれまで、ほとんど過去に関心を示したことはなかったのだ。彼は今、氷の底に沈んだような静けさの中で、遠くに見える幻影にも似た海原や、ひっそりと鎮まり返る城下の街並みの装いに誘われたのかもしれない。
 ふいに問われて、夜明け前の寂しさが冴乃の心に冷たく沁み込んできた。いつもよりさらに緊張している夫から受ける切迫感から、なにかしら人懐かしい想いがつのり、過ぎ去った日々の記憶がおのずから蘇る。
 茶室風につくられている角櫓から、西の山端に落ちかかる月を眺めたとき。中庭の池に舟を浮かべて散る桜に濡れたとき。降りしきる雪の宵、火鉢に暖まりながら寒さを噛みしめたとき――。
 ……これらはけっして特殊な時間ではないはずなのに、今の冴乃には急に、二度と再現することがないように思われたのである。
「存在しているということは、慚愧だ、屈辱だ」
 追憶に耽っていた冴乃の脳は急転した。吉景のこんな過激な言葉を聞くのは、最初の夜以来、ほとんど初めてであった。心の傷口が突然意識され、要所要所に力強く打ち付けられた留め金から放射される黒い光が冴乃の心理に細波を起こした。
「解答が得られるか否かを、おそらく私たちは、問題の前に立って直感するにちがいない。そして、その直感の彼方に、大きな問題が横たわっている。それは価値への問いかけだ、宇宙とは何か、という仕方の問題だ。ここには、何故か? と問う以上に困難がある。〈何〉は本質に関する問いで、〈何故〉は事象に関する問いだからだ。慚愧と屈辱は、生の直中そのものだ。日常性の泥濘にはまりこみ、生と死の対峙を目の前にして、そこから抜け出そうとする必死の足掻きを晒すことだ。それは先験性でもない、衝動でもない、意思でもない。むろん、喜怒哀楽さえ搾り出されることはない。根底的な、言いしれぬ生なのだ。この、言いしれぬ生の理由こそ、存在の理由であるはずだ。そして存在は、事象としてそれ自体を現わすのか、もしくは事象させるなんらかの主体がその支えとしてあるのか? 物体に関して、本質と事象の二元性を問題にするのは無意味かもしれない。しかし、人間の場合はどうだろう? 事象の底流に、やはり〈人〉存在自身の神秘があるのではなかろうか? すなわち、主体性は事象に対して潜在するものではないのか? なるほど、それもたしかに私だ。が、しかしまた、部分であることも疑いようがない。私は〈人〉を、個体それ自身においてすら時間軸・空間軸と共に事象を堆積する存在だと考える。ここに個人の可能性が弾力を秘めているのだが、いっぽう事象が人間のすべてを表現しているなら、事象そのものが私たちの存在であるなら、おそらく、私たちの意識は、露わにされる羞恥に堪えられないだろう」
 城下はしだいに明るくなってきた。濃淡のわずかな移ろいを見せる陰影の中に、家並みや木々が小さくたたずんでいる。天守の内部はまだ薄暗い。
「しかし、いずれにしても私たちの意識に対して先行するのは事象であり、その限りにおいて私たちは事象の領域を脱しえないはずだ。というのは、把握されることならば、それはすでにして事象なのだから。とはいえ、事象一般はむろんだが、与件としての主体性があるなら私自身の行動の軌跡すらも、私自身に対して相対的になる」
 吉景はゆっくりと冴乃を見やった。
 冴乃の位置からは、吉景の姿は左方からは外の光を浴び、右方からはくすんだ燈台の明かりが差して朱色の翳りを頬にゆらめかせ、陰影も判然としない。
「私は、この相対性が悲しいのだ。私が動いたのか、それとも私を取り囲む社会――時代が動いたのかわからぬ。にもかかわらず、一方では相対性の基準が固定されている。私自身ではあるが、他者ではない。私の生きている時代ではあるが、他の時代ではない。私は、こうしたどうにもならぬ閉鎖系に、取り返しのつかぬような恐怖と焦燥とを覚えるのだ。何方を向いても、無限の中に閉じ込められている時間空間の有限にぶち当たる。私にとっても有限は無数にあるだろう。その意味では無限とも言えようが、しかし私の行き着くところは、私であることのみによって、有限なのだ。僭越な欲望かもしれないが、私はこの有限の壁を突き破りたい、相対性を絶対性と置換したい」

01/18/2013


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